★平成コメ騒動
1993年のことになるが、日本国中がパニックになったことがあった。冷害によるコメ不足だった。
お金さえ出せば何でも食べるものが手にはいる平成の世に、コメ泥棒まで現われて、日本人のあわて方が少しコッケイでさえあった。コメの緊急輸入によって、タイや中国などから外国米が入ってきたが、「外国のコメはまずい」と騒ぎたてて、生産地の人たちのヒンシュクをかってしまった。
日本人にとって、コメはただ穀物のひとつというだけではなく、もっと心の問題や文化の問題と関係しているようだ。
戦後日本ではコメ離れが進み、コメがなくても平気なのではないかと思えるくらいだが、「農耕民族」の最後の砦がコメであり、それさえも輸入に頼れば、日本人の精神的なよりどころもなくなってしまうという危機感だろうか。
今さら、日本人が「農耕民族」とか「稲作民族」とか呼べるのかわからないが、「コメだけでも日本のものを食べたい!」という切羽つまった叫びが聞こえるようだった。今では、食料の大部分が外国産のものを食べているのに(国産食料自給率(カロリー換算)は41パーセント。農水省統計より)、コメだけは許せないという感情は、単に味覚だけの問題ではない。
日本人にとってのコメの意味と、アジアにはいろんな種類のコメがあって、いろんな食べ方がある。コメ不足は、そんなことに気づかせられたできごとでもあった。
★稲作の起源
稲作の起源について、従来の説はこういったものだった。
−−−稲作の起源地は、インド・アッサムから中国雲南省にかけてで、稲作文化は長江(揚子江)沿いに下り、約2000年前に海を渡って日本に伝わった−−−
ところが70年代の浙江省河姆渡(かぼと)遺跡の発掘以来、湖南省彭頭山(ほうとうざん)遺跡、江蘇省草鞋山(そうあいざん)遺跡など、中国の考古学的発掘によって、稲作の起源地はそれよりも東の方の、長江中下流域という説が有力になった。遺跡からは、今から5千〜8千年前の炭化したコメも発見された。また、1995年には、湖南省玉
蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡から、1万2千年前の稲籾 も発見された。その稲籾の分析の結果
、ノギが退化していて、栽培稲だろうといわれている。
各地の遺跡発掘が進むにつれて、稲作起源の年代は古くなるばかり。稲作が、どこでいつごろ始まったのか、学術的にはっきりするのは、当分まだ先のようだ。
また、その稲作が日本にどうやってもたらされたのかは、まだ諸説あって、こちらも定まっていないが、揚子江下流域の一部の人たちが、戦乱によって大陸から押し出され、海流に乗って朝鮮半島南部や、北部九州に移ってきた。そのとき、すでに日本では雑穀のひとつとしてコメが作られていたが、本格的な稲作はこの人たちによって伝えられ、日本列島に広がっていった。
今から2500〜2600年前の縄文晩期に、日本で初めて稲作が行われたといわれる唐津市菜畑遺跡の末盧館には、出土した「炭化米」や復元された水田が展示されている。
◆「稲」の語源について
★アジアのコメ食品
いずれにしても、アジアではコメと稲作風景は身近な存在である。夏に雨が降るアジアの風土に適した稲は、それぞれの地方で独特の景観を作っている。平地の広大な水田、山間部の棚田、急斜面
の畑、デルタの湿地帯・・・。
稲のラテン名は「オリザ・サティヴァ Oryza Sativa」。稲は、ジャポニカ型とインディカ型に分かれる。
アジア各地の町には必ず市場があって、コメ関係食品を多く見つけることができる。コメは白・紫・ピンク色、形もジャポニカのような丸いものから、インディカの細長いものまでとさまざまだ。コメを粒のままで、炊く、煮る、蒸す、炒めて食べる。麺にして食べる。団子状にしたり、ライスペーパーにもする。それも、生のままだったり、乾燥させたり。
モチゴメを使った食品の種類も多い。特にラオス人、東北タイ人、雲南のタイ族などは、モチゴメを常食している。中国タイ族の「水かけ祭り」やハンタイ族の正月に欠かせないものは「ハォロッソ」と呼ぶ、コメの粉を水で溶いたものに黒砂糖をまぜ、バナナの葉に包んで蒸した食品。似たようなものは、タイやラオスの市場でも必ず売られている。ココナツミルクをまぜたもの、バナナを入れたものなどなど。ミャンマーのチェントンという町の市場では、アヅキで色をつけた日本の赤飯とそっくりなものもあった。
コメはまた酒にも変身し、私たちの舌を楽しませてくれる。「咸亨酒店」と看板を掲げた中国浙江省紹興にある飲み屋では、まだ早い夕方だというのに、地元の老人たちがすっかり赤い顔をして酔っ払っていた。そこは魯迅の小説の舞台にもなった飲み屋だった。名物の豆腐とソラマメをつまみにとり、酒を注文する。ほんのり暖かいブリキの筒から、赤黄色の液体を碗にそそぐ。初めて飲む人には、ちょっとカビ臭い感じもするが、まろやかな味。これが日本でも有名な紹興酒だ。
翌日、酒の工場を訪ねた。甘ったるいような、カビ臭いような匂いが漂っている。18日間水に浸したモチゴメを蒸し、大きな扇風機でそれを冷ましている人。モチゴメにコウジを混ぜ、カメに入れ直している人。それぞれの工程を担当する人たちが汗だくで働いている。こうして手間ひまかけて作った酒を、3年以上寝かせて出荷するという。
紹興酒の歴史は古く、2300年前、春秋時代にさかのぼる。地元でとれるモチゴメと、郊外のいい水がこの素晴らしい酒を生み出した。ちなみに、中国でも東南アジアでもコメの酒はモチゴメを使うが、日本酒だけは例外でウルチゴメを使う。
◆中国貴州省トン族のモチ
★少数民族の正月
中国貴州省で春節(中国正月。1月下旬から2月中旬のあいだ)をむかえたことがあった。そこにはプイ族やミャオ族などの少数民族が住んでいて、春節にはモチや自家製の酒で新年を祝う。
訪ねたプイ族村の周りは、ソラマメと菜の花畑になっていたが、夏には一面
水田に変わる。主食はここでもコメである。おおみそかにモチをついた。ウスは木製の船の形をしたもので、キネは横ギネを使う。バタッ、バタッというモチつきの音が、村中のあちこちから聞こえてきて、おおみそかの雰囲気をもりあげる。日本のような、大きな鏡モチや、直径10センチほどのものに、すったゴマを入れたモチなど、数種類つくった。茹で玉
子の黄身を手のひらに塗りながら、モチをひとつづつ丸めている。黄身を塗るとモチが手にくっつかないのだそうだ。写
真を撮りながら彼らの仕事を見ていると、「どうぞ」といって、男がひとつ差しだした。できたての熱々のモチのおいしさは格別
だ。正月の味がした。
家族みんなが顔を合わせ、特別料理を食べながら、楽しく談笑する光景は、ホッとする安らぎを感じさせる。春節には、前年の豊作を自然に感謝し、今年の豊作を祈る意味もある。神や祖先へのお供えにはコメが多用される。
厳しい労働から解放されるハレの日の春節が終わると、春をむかえ、本格的なコメ作りの仕事がふたたび始まる。雨の多い夏のあいだ、稲はすくすくと育ち、秋には黄金の稲穂が風に波うち、待ちに待った収穫をむかえる。こうした稲作のサイクルは、人間の生活にリズムを与え、何千年も繰り返されてきた。
★アジアの棚田
雲南省の南部一帯には、巨大な棚田が残っている。200段ほどの棚田が、崖の下に広がっていた。細長い田にはすべて水が引かれ、田植えを待つばかりだ。イ族の男が、水牛に田を鋤かせている。
それにしても、すごい風景だ。何千という水田が朝日に輝く様子は、悲しくなるほど美しい。なぜこんな斜面
に水田を作って生きなければならないのだろう。彼らは決して美しい棚田を作ろうとしたわけではない。こういう山地には、こう作る以外に作り様がなかったのである。それは他の民族から土地を奪われたり、また奪ったりしながら生きてきた歴史を物語ってもいる。
棚田を目の前にすると、人間というチッポケな生きものの、賢さや、しぶとさや、悲しさや、偉大さなどがいっしょくたになって頭の中で渦巻いて、ため息がでてしまう。
日本では効率が悪いと年々つぶされ、これほど大規模な棚田は見ることはできない。遠い将来、ここも同じ運命をたどるかもしれない。しかし、棚田は少なくなっても、コメの作付け面
積は世界的にみれば逆に増え続けるだろう。21世紀に向かい、人口増加による食料不足はますます深刻な問題となり、栄養的にもバランスがとれている理想的な穀物であり、粉にひく必要もなく食べられる便利さがあり、しかも美味しいというコメは、世界での需要がますます高まると予想されている。
近年、日本では棚田に対しての感心も高まってきた。それは今までの工業化、都市化してきた日本人のライフスタイルに対する反省があるのかもしれない。
都会の人たちに棚田を貸して、過疎化した山村の棚田を存続させようという試みや、田植えや稲刈りを体験することができるツアーの募集をしたりと、様々な活動が行われている。棚田は農業の生産現場としてよりも、ひとつの文化遺産として、また国土保全の機能をもつ「緑のダム」として、自然環境という面
からも再評価されている。
棚田の話は、農業問題だけの話にとどまらない。私たち日本人のライフスタイルを一度考え直す時期に来ている、その象徴的な意味も含んでいるように思う。
◆中国雲南省元陽の棚田
★コメ食文化の将来
1993年のコメ不足の時、実は「外国米はまずい」と日本人全員が不平を言っていたわけではなかった。中にはカレーやチャーハンには合うと、喜んで食べた人もいたのだ。
外国旅行に出かけるのは日常茶飯事になり、現地で覚えたコメ料理を日本に帰ってから再現しようとする人たちもいる。こんな風に、日本のコメの食べ方も、外国からいろんな影響を受け、変化をしていくだろう。
反対に、寿司が欧米で食べられるようになったり、日本風のセンベイが中国でも作られるなど、日本のコメの食べ方が外国で受け入れられることもある。
いずれにせよ、違いは違いとして認めたうえで、いいものは取り入れていくということが大切で、またそれは自然な流れでもあるだろう。コメを美味しく食べる文化を大切にしたいと願うのは、どこの国の人でも同じなのだから。
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