「中国南部トン族のモチ」

 その写真を見たのは今から12年前のことだった。中国貴州省貴陽の書店で手に入れた「貴州古建築」という地元の出版社が出した本。ぱらぱらとページをめくっていって、ある写 真に目が釘付けになった。  
  それは美しい屋根がついた橋と、火の見やぐらのような建物。これはなんなんだ?と思った。
  その後いろいろ調べてみると、これは釘を一本も使ってない建築で、トン族の「鼓楼」と「風雨橋」だとわかった。鼓楼は、一番上に木製の太鼓を吊し、屋根が幾重にもなった塔状の建築物で、一方の風雨橋は屋根つき橋で、別 名「花橋」ともいう。私は「中国版マディソン郡の橋」と呼ぶことにした。

 トン族は、「百越」系の民族で、■(タイ)族、壮(チワン)族とも親戚 だ。貴州省、湖南省、広西壮族自治区の接する地帯に住んでいる。少数民族とはいえ、総人口約150万人で、人口数では中国第12番目の大きな集団である。 (■にんべんに泰) ようやくこの「マディソン郡の橋」を訪ねたのは、1年半前のことだった。

 香港から中国に入国した私は、飛行機とバスを乗り継いで、まず広西壮族自治区の三江にいった。郊外の林渓郷平岩村には「程陽橋」という有名な風雨橋がある。
  橋の近くには、酒造りの小屋があった。中国語では「米酒」だが、日本酒とは違って、モチゴメから造る蒸溜酒だった。簡単な装置が置いてあって、男たちが働いていたが、できたての「米酒」を味見させてくれた。香りは良かったが、アルコール度数が30度はありそうで、けっこう強烈な酒だった。この酒は、トン族の生活には欠かせない。とくに、冠婚葬祭では、必ずこの地酒が出されるのだ。

☆☆☆☆☆☆☆☆

 広西から貴州に入り、美しさで知られる地坪風雨橋を見たあと、軽トラックの乗り合いバスで、黎平県肇興村に到着した。鼓楼が数座あり、独特の風情のある村だった。  
 ここから歩いて1時間ほどのところに紀堂という村がある。「貴州古建築」にも、紀堂村の美しい皷楼を紹介していた。
 山道を登っていくと、途中、棚田で稲を刈っている男がいたので写真を撮らせてもらった。トン族は稲作を生業とし、他に林業も営んでいる。
  男は仕事の手を休めて「家に来て食事をしてください」といった。中国の田舎ではよくお茶や食事に呼ばれる。そのとき断わらないのが、部外者を受け入れてくれる彼らに対しての礼儀だと思っている。私がかってにそう思い込もうとしているだけかもしれないが。
 男の名は陸さん。53才。陸さんは奥さんといっしょに昼食の準備にとりかかった。
 どんぶりに山盛りの酸魚を載せたものが、竈の上に置かれてあった。酸魚というのは、魚とモチゴメをいっしょに漬けて乳酸発酵させたナレズシのことである。魚は田魚といって、鮒のようだったが、これは字のごとく田で養殖されている淡水魚。
 ここのナレズシは、唐辛子もいっしょに使うので、真っ赤な色をしている。漬けてから8ヶ月たったという。陸さんは「8ヶ月では短い方。中には15年ものもあるよ」と教えてくれた。
 八角形のテープルのまん中に穴が空いていて、そこに火鉢を置き、中華鍋をかける。干した豚肉と湯を入れ、しばらく沸騰させて出汁をとったら、豚肉は取り出す。そこに酸魚を入れて、煮て食べたが、そのまま食べることもあるし、油で揚げて食べることもあるという。骨も全部食べれた。
 琵琶湖周辺のフナズシほど味は洗練されたものではなかったが、素朴さがトン族のナレズシの良さだろう。

 陸さんは手際よく「油茶」も作りはじめた。これもトン族独特の料理である。
 まず油を熱し、紅白のアラレを揚げる。水を足し、沸騰させたら、茶葉と塩を入れる。そしてしばらく煮たあと、茶葉は捨てる。次にサツマ芋を入れる。なかなか具沢山のスープ。
 茶というより、料理といった方がいい。具として入れるのは、サツマ芋だけではなく、なんでもいいらしい。 他のところで御馳走になったときは、刻みネギやピーナツを入れたものもあった。ありあわせの野菜を茶で煮込むスープという感じだ。これだけでもおやつとしては充分なボリュームがある。
 陸さんは次にモチ作りの準備に取りかかった。
 ここではモチ種のアワが栽培されていて、納屋の軒に吊るしてあったアワの束を持ってきて見せてくれた。
 モチアワとモチゴメを同量づつ、2時間ほど水に漬けたあと、円筒形をした木製の甑の中に、下段にはコメ、上段にはアワを入れて蓋をして、竈の大きな中華鍋にかけて40分ほど蒸す。その間にゴマを煎ってすり潰しておく。 アワとコメが蒸しあがったら、土間にある足踏み式のコメツキでふたつを混ぜながら搗いていく。ひとりが杵を足で踏み、もうひとりがアワとコメを返してまぜる。ふたりの息を合わせて、リズミカルに作業をするのは、日本のモチツキと同じだ。アワとコメがだんだんと混じっていき、ついには滑らかな黄色に変わっていった。  
 できたモチにはすり潰したゴマとザラメをまぶして食べる。あつあつの搗きたてのアワモチは美味しかった。アワを使った食品など、日本ではめったに食べる機会がなくなったので、アワの独特の香りが、新鮮な感じだった。
 肇興村の通りでも、黄色いアワモチが売られていた。直径10センチほどの円板状のモチは、ひとつ5角(約7円)。学校へ向かう小学生が小遣い銭で買っていく。アワモチ(トン族の言葉で「スイー」)は、トン族の間ではポピュラーな食べ物である。
 他に、市場では日本でもおなじみのコンニャクや、逆に日本では見かけない「血貫腸」というモチゴメとブタの血を腸詰めにしてたものも売られていた。

 このあたりのトン族は、昔は毎日モチゴメを食べていたが、今はほとんどウルチゴメが主食になった。田んぼに作付けしているのも、8割りはウルチ、2割りがモチだという。
 「モチゴメは美味しいんだけど、収穫量が少ないからな」
 と陸さんはいう。
 ここには食味を犠牲にしてまでも、収量を重視しなければならないトン族の現実がある。
 中国の経済発展は、目を見張るばかりだ。日本のメディアでも、中国東部の上海や北京の発展した様子を報道している。しかしまだまだ中国内陸の農村、とくに少数民族の山村は貧しいのである。
 アジアの温帯地帯は、稲作が盛んだが、ここは稲作文化圏の中でも、とくにモチをよく食べる「モチ文化圏」にも所属してる。この「モチ文化圏」は、中国南部の雲南・貴州、ラオスを中心にした地域だ。この文化圏の東端は日本になるわけである。
「モチ文化圏」は、「照葉樹林文化圏」に含まれる。しかし「照葉樹林文化」論は、以前ほど重要視されなくなってきた。これに関連して、稲作の起源地も、以前は中国雲南省からインド・アッサム地方にかけての地帯と言われてきたが、最近の中国の考古学の成果 によって、長江(揚子江)の中・下流域ではないかとも言われはじめている。
 ただ学説がどうであれ、モチ種を多用する「モチ文化圏」は、今まだ確かに存在しているのである。
  コメに限らず、「モチ文化圏」には、モロコシ、アワ、ヒエなど雑穀のモチ種もあって、さかんに利用されている。どうして、モチ種が好まれるのかというのは、諸説あるようだが、有力な説としては、もともと山芋、里芋など、ネバネバしたものを食していた昔の人たちの嗜好性がそのまま残っていて、コメや雑穀でも、そのネバネバが忘れられずに続いているというものだ。
 なるほどと思う。私もインディカ米のパサパサ感はあまり好きではない。かと言ってモチゴメを常食するには、腹にこたえ過ぎるが、ちょっとネバり気のあるジャポニカ米がちょうどいいというところだろうか。もちろん、ハレの日にモチを食べるのは好きだが。  たぶん、腹持ちのいいモチゴメが常食されていたのは、昔の厳しい労働環境のせいもあったろう。今はかなり楽になったので、モチゴメを毎日食べるのは逆にきつくなってしまったということではないだろうか。
 ただ、祭りや宗教儀式のお供えとして、モチゴメはまだ重要な位置を占めている。日本でも、正月には鏡もちを御供えし、赤飯でお祝する。「モチ文化圏」に共通 する文化である。

☆☆☆☆☆☆☆☆

 たまたま訪れた従江県平球村の鼓楼では、囲炉裏を囲んで数人の男たちが談笑していた。
 「今日は」とあいさつして入っていくと、最初は何のために来たのか?と怪しまれた。「日本から鼓楼の写 真を撮りに来ました」といっても、「どうしてこんな古い建物を撮るんだ?」となかなか理解してくれなかった。
 新しいものが「いい」という今の中国で、何千キロも離れた外国から、わざわざ古いものを写 真に撮りに来る神経は、彼らにとったら気違い沙汰と映るのだろう。
 それでも害はないとわかってくれたようだった。そして、これから我々はどこそこに出かけるが、あなたもいっしょに行かないかと誘われた。
 「どこそこ」が聞き取れなかったが、なにか面白そうだったので、連れていってもらうことにした。

 そこは隣村の1軒の家だった。200人ほどの村人が集まっていて、食事の最中だった。その家の子供の1才の誕生日を祝う集まりだということがわかった。  
 家のベランダで私も食事に呼ばれた。さっそく4人の娘が私のそばに立ち、かん高い声で歓迎の歌をうたってくれた。歌が終わると、お猪口を私の口につけて、例の米酒を流し込み、テープルにおいてあった豚の刺身を箸で摘んで、これも無理矢理私の口に押し込んだ。 なんと荒っぽい歓迎なのだろう。
 みんなは興味深々と見ていたが、私がそれらを飲み干すとワーッと歓声が上がった。村入の儀式は無事に済んだようだった。
 「昔、ヨーロッパのジャーナリストが『豚を生で食べる野蛮人』と、トン族のことを書いた。豚の生食が危ないことは知っているし、そのうちなくなってしまうかもしれないが、食習慣はなかなか変わらないものだよ」
 と隣の男が笑いながらいった。
 日本人はフグという毒入の魚を生で食べるのだから、お互い様といえる。ただ、理屈ではわかっても、やっぱり豚の刺身は恐かった。
 楽しそうに食事をする村人たちの姿を見ていると、ここが日本の山村だと言われてもまったく違和感がないくらいである。風景のせいかもしれない。しかし豚肉の刺身など例外もあるが、基本的には彼らの食べ物は日本と共通 するものが多い。アジアを旅していてホッと落ち着くことが多いのは、この温帯地方で育まれた食文化が、日本人には馴染みやすいという理由は大きいのではないだろうか。


guizhou