元陽の棚田と春節

 今年(2002年)、1月初めから1ヶ月半雲南に滞在したが、そのうち2週間は、棚田(梯田)のある元陽県内にいた。

 元陽は、雲南省の南部、ベトナムとラオスにも近い国境地帯に位 置し、面積2189平方km、35万5千人が住む県のひとつである。雲南省の省都、昆明から南に300km、車で8時間かかる。この県には、ハニ族、イ族、ミャオ族、タイ族などの少数民族が住み、主に、棚田で米を作っている。海抜が1400m〜2000mで、霧と雨が多く、稲作には適していて、唐の時代から、棚田が有名なところだった。

 ちょうど、春節(中国正月)を挟んだ滞在だったので、休暇を取った中国人観光客も、 元陽に大勢や ってきた。一番多いときで、町のホテルがいっぱいになるくらいだったが、そのうちの90パーセント は、なんとカメラマンだった。去年あた りから、中国人カメラマンの間では、インターネットで元陽が 話題になり、やって来るようになったということだ。

 ゴールデンウイークに、日本の九州長崎県福島町の土谷棚田へ行ったときにも、カメラマンの多さ に驚いた が、さすが中国、棚田の規模も大きいが、カメラマンの数も、尋常 ではなかった。 ただ、春節が過ぎる と、まったく静かになってしまうという話だが。

 前回訪れたのは、2000年9月。そのときと比べて、今回、変わっていたことがいくつかある。

 地元政府は、元陽棚田を世界遺産に申請すべく、着々と準備中だ。元陽県の棚田の総面 積は約1.1万haある。(2000.6.6 『梯田文化報』より) 登録申請予定の棚田は、主なところで3ケ所あり、そのなかの「モンピン棚田」は約460haあり、なんと段数が3000段(小さい畔も含むと思われるが)に達すると言われる。(棚田の面 積は『紅河哈尼梯田農耕文化』による)  ちなみに、また、日本と比較すると、「日本棚田百選」に認定された棚田は1haから40haくらいで、最大でも岡山県久米南町北庄の88haだから、その規模の大きさがわかるだろう。

  中国政府の「西部大開発」(中国 西部は、貧しい地域なので、これからは西部を重点的に 開発をしようという政策)の勢いに乗って、世 界遺産の登録も成功させようとしてい るようだ。 中国のテレビを見ていると、2008年のオリンピックが 決まったことがよほど嬉しかっ たらしく、まだ数年先なのに、毎日のようにオリンピック関連の番組を 放送している。このことも、「西部大開発」にはずみをつけている。

  元陽政府は、世界遺産への登録と同時に、観光開発も考えている。なにしろ、棚田 しかない貧しい土地なので、その棚田に価値があると知った地元の人た ちは、なんと か、これを経済的な発展に結び付けようという考えなのだろう。

  ハニ族村(チンコウ、元陽から約8km南)を含めて周辺の棚田を撮影できるポイントがある。そこは、カメラマンに人気のポイントになっていた。私は、前 回と同じように写真を撮ったが、カメラのファインダーを覗いて、「あれっ?」と、何かがひっかかった。村の様子が、変わっていたのだ。美しい家 並・・・。家の屋根は、伝統的な茅葺き屋根だ。何かがおかしい・・・。コンクリートの建物ができたりして、家並は、年々趣を無くしていくのが普通 なの に、この村は、前回よりも「良く」なっている。すべての家の屋根が、茅葺きになっていたのだ。前回は、たしか、コンクリートの、白い箱型民家もあったは ずだが。

 あとで知ったことだが、この村の入り口ではゲートを設け、入村料をとるようになって いた。観光地の「民族村」として、政府が補助金を出し、民家を伝統 的な茅葺き屋根の民家に建て直したのだった。いくら、家並が伝統的な屋根に変わり、美しくなっても、どうもリアリティーがなかった。 どこかに、作り物の、嘘っぽさ、安っぽさがにじみ出てしまうものだ。

 こういうことは、雲南のいたるところで行われている。世界遺産の麗江も、古い民家ふ うに建て直した部分も多く、どこか、映画のセットのなかを歩いているような、落ち着きのなさを感じてしまう。まあ、観光地とは、そういうものだと言えば そうなのだろうが。そして、私は昔の様子を知っているので、ことさら今の観光地化してしまった麗江に、ある寂しさのようなものも感じ過ぎるのだろう。「昔は良かった」と言ってばかりいては、何も前に進まないから、あまり言いたくはないのだが、でも、やっぱり、私は昔の素朴さが好きだった。地元の人間でさえ、「昔の方が良かった」といっているのもいるので、私たち外国人の感傷ばかりではないと思う。

 元陽の、こうした「棚田で町興し」の流れの中で、「梯田酒(棚田酒)」というのも売り出されていた。考えることは、日本人も中国人も同じだな。日本の棚田でも「棚田米」「棚田酒」「棚田せん べい」などが作られている。しかし、この酒、原料を見ると、コメとトウモロコシなのだ。トウモロコシは、棚田では作らないだろう。

 しかし、中国人によると、この「梯田」という言葉は、いわゆる日本でいうところの「棚田」という意味の他に、「段々畑」を含めるこ ともあるという。だから、トウモロコシを使った酒でも「梯田酒」と呼んでいいそうだ。味の方はというと、これは、白酒(蒸溜酒)なの でアルコール度は高く、カーッと咽を焼くよう強烈な酒である。しかし、一般 的な白酒よりは、まだましとも言える、コメの香りと、実験 室の片隅に置いてあるようなアルコールの匂いがする。慣れないと「美味しい」とは言い難い。いや、人好きずきだから、あんがいこうい う匂いが好まれるのかもしれないが。

 ある元陽のイ族村を訪ねた。春節には、村の広場に高さ15mほどの大きなブランコを作って遊ぶ。それが、イ族の習慣だ。私もブランコ に乗せてもらった。

 あとで、村の男たちから呼ばれて、家を訪ねた。そこで夕食を御馳走になりながら、こんな話を聞いた。

 ここも、ハニ族観光村のチンコウと同じに、イ族観光村にしたいのだという。観光資源としては、棚田の風景と、池がある。池を、釣り堀にして、そこで釣 った魚を料理して食べさせるレストランを開業する。そこまでは、「いいかもしれない」と私も思った。ところが、「それと、カラオケを作り、村の若者たち にイ族の歌と踊りを教え、お客の前で披露するんです」という。

 「こんな田舎の村にカラオケ? そんなものを作ったら、外国人は、来なくなりますよ。私たちは、今のような自然のままがいいし、唯一あったらいいなと 思うのは、宿泊できる、民宿のようなものだけです」と、私はいった。しかし、彼らは、外国人など相手にしない。10年前は、外国人が観光地でお金を落とし ていたが、今は、金持ちになった中国人のほうが圧倒的に数も多いし、金使いも派手なのだ。だから、カラオケなのである。カラオケは観光地に欠かせない。 彼らは、そう信じている。

 しかし私は、安易な発想だと言って、笑うことはできない。若い人たちは、ほとんどみんな外に出稼ぎに出ている。村に仕事がないのだ。このままでは、い けない、なんとかしなければ、という思いがある。日本人も、似たようなことはやってきたし、それだけせっぱつまった彼らの経済状態が、ちらちらと見えて しまう。なんとしてでも、この棚田ブームに乗っかり、村を豊かにしたいという、この男たちの熱意だけは、悲しくなるほど伝わってくるのだった。

 今回、元陽郊外のタイ族村に春節二日目にいってみた。ここでは村人が、三日三晩太鼓を打ならし、踊りつづけていた。酒、タバコ、食事が次から次へと勧められる。断わることなどできない。強引に、食べさせられ、飲まされる。これは「無理強い文化」の最たるもので、一種の拷問に近い。もし、そういうことに耐えられそうになかったら、早々に立ち去るしかない。

 さんざん酒を飲まされ、ふらふらになって地面 に寝転がって横になっていると、男(村長か?)が「寝てないで、みんなと踊ろう」という。「もうダメです。酔ってしまいました」といっても許してくれず、腕を引っ張られ、無理矢理踊りの環の中に連れていかれた。私は、カメラバッグを背負い、ふらふらの状態で、まわりのタイ族たちの踊りを見よう見まねで真似て踊った。カメラバッグを置くところがないし、しかたないのだが、重いバッグを背負っての踊りは苦痛のなにものでもなかった。しかし、不思議なことに、30分もしてくると、酔いも抜けたのか、妙に気持ちが良くなってきた。

 それにしても、踊りに参加しているのは老若男女だが、とくに若者たちの騒ぎ方はすさまじい。1年1度のばか騒ぎは、必要なことなのだろう。エネルギーの発散だ。そのなかには、当然邪悪なエネルギーも含まれる。祭りとは、本来こういうものだったに違いない。春節でもここのタイ族の若者たちは、ジーンズとTシャツで、民族衣装は着なくなっているが、この祭りの深い意味だけは、いつまでもかわらないかもしれない。

 ただ、やはり変わってきているところもある。春節の三日目の朝、村の男たち300人ほどが河原に集まり、朝日に向かって一列に並び、昔はいっせいに鉄砲を撃っていたという。それが、国から鉄砲が取り上げられ、それ以降は、鉄砲の代わりに石を投げていた。自然の恵みをもたらしてくれる「カミ」に、豊猟を祈る儀式である。 ところが、2、3年前から、この石も投げなくなった。今回見たのは、男たちが持参した、おこわと豚肉を、大地にふりまき、そして自分たちも食べる、というもので、儀式らしいことといえば、これだけだった。

  どうして石を投げなくなったか?というと、村では換金作物として、河原でスイカを栽培するようになり、石がスイカに当たるとまずいからだ。自然の「カミ」は、「カネ」に変わりつつあるということだろうか。

写真家 青柳健二

   

オリザ館メニュー